日本近代篆刻の開祖
東皐心越禅師下野来訪までと下野の心越額 丸山暁鶴
日本に近代篆刻が入って来たのは、1650年頃(江戸)中国からの渡来人達によって、長崎を起点として叙々に波及して行った。
長崎は、江戸時代奉行所が置かれ、鎖国後も外国人の出入りは、有名な「長崎出島」を窓口に、日本唯一の貿易港として文化の流通も合わせて行われていた。承応二年(1653)長崎に渡来した「戴立(たいりゅう)」。後に翌年の承応三年に渡来した隠元禅師に就いて得度し、「独立(どくりゅう)」として仏道を歩んだ人物と、延宝五年(1677)正月、長崎に上陸し南京寺と呼ばれた、東明山興福寺に入った「心越」の二人が、日本の近代篆刻の開祖とされる。
独立は、明の動乱期に中国各地を巡歴し、明が滅亡前の承応二年に、五十八才で長崎に渡来。隠元と出会いその法威に触れて仏門に入る。詩・書・画・篆刻・医術にもすぐれ、特に書はその表現の幅は広く、隠元の影響も受けているが、明代書法を受け継ぐ本格的なもので、中国時代からその声名は高く、当時の日本でも草聖といわれ、北島雪山・沢田東江などもその影響を受けている。
平成八年二月〜三月、東京国立博物館で、「唐様の書」の企画展が催された。
隠元・木庵・独立・北島雪山・荻生徂来・三井新和・細井広沢・亀田鵬齋・貫名菘翁・池大雅その他と共に、百点以上の名筆家達の遺作を見ることが出来た。その時始めて独立の肉筆を見て、そのダイナミックで流麗な運筆の確かさに驚かされた。
独立の篆刻は、平凡社版書道全集別巻U(印譜日本編)を開くと、第二部に日本篆刻の草創期に活躍した人達の名前と作品が出て来る。その最初に、独立・心越の二人が開祖として肩を並べている。そこに掲載されている独立の印「愒茇(けいはつ)・遺世独立(いせいどくりゅう)・天外一關l」の三顆が有る。
日本篆刻の開祖として、この三顆を見るのみでは少なくて、どの様な印を作り、どの様な影響を日本の近代篆刻に及ぼしていったか、判断する事は困難である。
しかも、この印影は原ツ(げんけん)ではなく、書作品からの転写印である。全集には、「他に独立禅師自用印譜がある」と出ているが、その情報の確認は得ていない。(原ツとは、印刷本ではなく、一個一個手で印泥をつけて印を押したものを、原ツ印と云う。)
心越は、中国浙江省(平成五年栃木県との友好条約を結ぶ)金華府(平成六年栃木市との友好条約を結ぶ。現在の金華市)浦江県に生まれる。名を興儔、初名兆隠。心越は字。東皐と号し又樵雲とも号した。一説には、三国時代の蜀の武将関羽雲長と、母方が縁続きであると云われている。
金華市は、西湖で名高い杭州市から南150キロの所にあり。明清の乱の時、1644年三月北京城が清軍の手に落ち、毅宗帝が自殺。次の年六月には、金華府城が落城。逃げまどい殺戮される悲惨な場景を目のあたりにした七才の心越。心の中に清を敬遠する気持ちが芽生えても、決して不思議なことではない。後に光圀の儒学の師朱舜水と初会の折り、「清の粟は食わず」と手を取り合って誓ったと云うことである。
八才の時、蘇州の報恩寺で出家。数年間この寺で修行し、江蘇・浙江あたりを師を求めて行脚すること数年。師の覚浪道盛(1595〜1662)に出会うのが、順治十五年(1661)心越二十才の時である。
明を追撃している清軍も、第三代世祖(順治帝・在位1664〜1661)の年号も終り、四代皇帝聖祖(康熙帝・在位1661〜1722)の時代に入って行く頃である。
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