「展示会に行ってきたよ」のコーナー第1回に訪問させていただきました丸山暁鶴先生より、先生のライフワークであります心越禅師の寺院額の調査について、現時点での調査結果をまとめられた原稿を頂きました。先生より当サイト読者の方にもご紹介させて頂いて構わないとの了承を得られましたので、内容を掲載させていただきました。

覚浪道盛は、曹洞宗寿昌派中興の祖と云われ、杉村本(望郷の詩僧・東皐心越・杉村英治著)によると、「父の死にあい、人はどこへ行くのだろうと考えていると、そばで猫がにやおと啼いたのを聞き、感じるところあって、僧になった。覚浪の禅は厳しく、激情の人は世に迎えられるが、血気の勇なきものは世の激浪にのまれてしまう」と書いている。

また「順治三年には南京郊外鳳山の天界寺で特異な禅風を展開」とあるが、そのあたりが我々には計り知れない禅の奥義であり、曹洞宗寿昌派と云う別派の体質なのであろうか。

せっかく師の覚浪と出会い修行を始めたにも拘らず、その翌年六十八才で覚浪は世を去った。

師なき後、杭州の東北十数キロに有る、皐帝山の崇光顕光寺の住職潤堂大文について修行を積み、康熙九年(1670)三十二才で、大文師から曹洞宗寿昌派の印可を受ける。

その後、杭州の西湖から西へ四キロにある、靈隠山中腹の永福寺に住職として入る。

永福寺への登り口には、観光寺院としても有名な靈隠寺の大伽藍が並び、観光客がいっぱいで、門前には赤い幕をさげた土産品店が沢山軒を並べ、その後ろの流れに添って飛来峰石仏群と呼ばれる、沢山の磨崖仏が有る。

この飛来峰とは、インドの靈鷲山(中インドのマガダ国の首都、王舎城の北東にあって、釈尊が法華経を説法した山。鷲が多く栖むところからとも、鷲の形をしているからとも云う。)から飛来した岩山と云う事から伝えられている。後で説明する、黒羽の大雄寺の心越額「靈鷲」は、これを書いた物である。

一段と戦乱が激しく続く中を、同郷で長崎興福寺住職澄一(ちんいち)禅師の招きに応じて、杭州湾から密かに出港するが、途中海上哨戒に渡航をはばまれ、衢山島(くざんとう)に数か月避難しチャンスを待った。延宝四年(1676)十二月三十日、心越の乗った南京船は、九州の薩摩に着いた。船中で正月を迎え、長崎港に着いたのが正月十三日、心越は役人から来歴などを厳しく尋問された。得度から今日までの経緯を説明するが、受け入れ側の興福寺が臨済宗の寺であるため、疑念はとけなかった。

寛永十二年の鎖国令以来、外国人の出入国については、当然厳しいものが有った。

どうにか澄一の斡旋によって、やっと上陸することが出来た。時に三十九才であった。

丁度その頃、水戸藩士今井小四郎当時二十八才が、日本語を話せずさびしがる、光圀の儒学の師朱舜水が呼び寄せた孫を迎えるため、長崎に逗留していた。

今井小四郎は、十四才にして才能を見込まれ、光圀から朱舜水に付いて儒学を学ぶことを命ぜられ、いつしか中国語(当時は唐語と云ったかも知れない)が堪能になっていた。

心越は、この小四郎との出会いを大変喜び、関東へ下る伝とすることを考えていた。

上陸して以来、長崎を足場に京都大阪方面へと巡鍚の足をひろげ、大いに禅風を巻き起こしたために、異派の僧によって訴えられ、禁足幽閉される。

上陸の時、表向き澄一の弟子となって、臨済宗の僧となったはずの心越が、京阪地方での活動に、曹洞宗寿昌派の禅風を披瀝して長崎に戻ると、待っていた長崎奉行所に捕えられた事は、心越の中で布教の焦りがこれを招いたのであろう。

小四郎は、心越の窮状を聞き、名僧が幽閉状況に有る事を光圀に奏上し、救出の活動を始めたが、大老酒井忠清と光圀の折合いが悪く伸び伸びになったが、酒井の失脚によりチャンスが廻って来る。

救出した心越を、江戸の水戸藩邸に迎える事になった。

心越の関東への旅は実に安楽の気が大きく、伸び伸びとしたものであったろうと思う。

長崎の奉行の厳しい詮議と禁足、従僧の恵巌は手錠、普雪と愚公は七里外追放処分。全てが夢の中の出来事の様に解決し、光圀と云う大きな庇護者に会う旅である。

 

 

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