詩を作り絵を書き、逗留する曹洞宗の寺々に置いた作品が、現在東海道添いの寺院に残されたものの大半であろう。
この後も貞享三年夏、長兄蒋尚郷が長崎に来ているため、船も利用したと思うが、東海道を二度旅をしている。
遺された作品で名高いものは、何と云っても金沢八景の詩である。今、広辞苑で金沢八景を引くと、「金沢にある洲崎晴嵐・瀬戸秋月・小泉夜雨・乙艫(おつとも)帰帆・称名寺晩鐘・平潟落雁・野鳥夕照・内川暮雪の八景で、明の心越禅師の命名」と有る。
これが日本的に知られるようになった事は、一五〇年後の江戸末期、安藤広重の版画によるところが大きい。
水戸藩邸に入った心越は、近くの駒込寺町に有る高林寺や、本郷菊坂の長泉寺へ出掛けては、曹洞宗の僧との語らいの場とした。その間水戸と江戸を往復し、篆刻や琴の指導も行った。
琴とは、古来からの七絃琴を指す。現在の十三絃は筝と呼ぶが、“琴”や“こと”で共用している。中国詩にある琴とは、全て七絃を云う。
この七絃琴は、古代日本に伝えられ途絶えていたが、また心越によって再伝承され、現在東京の坂田進一氏が系統を保っている。
また琴の弟子で、幕府の儒官人見竹洞(1637〜1697)がいる。名を節、字を時中、後に友元と称し、号は竹洞・鶴山・餘慶と称す。京都に生まれ、九才の四月世子家綱に拝謁、二十五才近侍として将軍家綱に仕える。林羅山の門に学び、林鳳岡と「続本朝通鑑」を編纂。采地千石を拝領。家綱なき後、五代綱吉に仕えて、信任あつかったと云う。
人見家の知行地は、足利市にあり。その直系は、近年まで足利市に住んでいたが、家に伝わる古文書は、全部足利学校に寄付して上京された。足利学校には、学芸員が不在で整理出来ず、出来次第連絡をくれるはず。
人見家の菩提所は、足利市西場町雲龍寺の山の中に、大きく一区画された人見家三代の墓が有る。(栗田美術館の北)
心越と竹洞との親密度は、師弟の間柄をこえて、折りにふれ誕生祝や花の観賞会等の名目で、竹洞の別邸への出入りも多かった。
竹洞の収集していた心越印が、栃木市の青木畔泉氏所蔵の「松石山房印譜」の中に四顆(か)程見られる。三顆は「瓷印槗鈕(じいんきょうちゅう)」「青花瓷(せいかじ)」と有る事から、陶印であると思われる。
文は、「東皐(とうこう)」「黹黹甫(ちちほ)」「黹黹甫」同印下は陶印の焼成のゆがみが見られる。脇には、「心越禅師所齎来」。もう一顆は、「臥看江南雨後山(ふしてみるこうなんうごのやま)」脇に「晶印槗鈕」と有ることから、水晶の印で橋のような半円の鈕が付いていると思われる。もう一行に「心越禅師所齎来係人見竹洞舊蔵」と有る。心越禅師から人見竹洞がいただいて持っていた印と云うことであろう。
この「松石山房印譜」は、清の道光十年(1830)編の「小石山房印譜」とは別本で、楊守敬の叙文が有る。
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